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植物がくれるもの、植物にあげられるもの」

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素敵な庭があったり、いつかはそんな庭を手に入れたいと思っている方がこれを読んでくださっているのでしょうか。いずれにしても、木や花がことのほかすきな方なのでしょうね。

 土を耕し、種を植え、水をやり、肥料をやり………植物にしてあげることがあって。そして植物たちからは、育っていく楽しみをもらい、花の美しさをもらい、その香りをもらい、実をもらい、木陰をもらい、色づいた葉っぱをもらい………そんなふうに、木や花からたくさんのものをもらう。それは、ギヴ・アンド・テイクなのでしょうか? いやいや、そんなちっぽけなものではない気がします。植物はわたしたちに、もっとピュアで、もっととてつもない愛情を与えてくれているような気がしてならないのです。

 こんなことがありました。

アマリリスと彼女の想い

このあいだ、友人がなくなりました。彼女は10年前に「ALS(筋萎縮性側索硬化症)」と診断されて、ずっとベッドに横たわったままでした。

 最初の頃はあいうえおボードで「(おみまいにきてくれて)あ り が と う」と伝えてくれることもできましたが、しばらくしてまぶたが開かなくなり、瞳孔が動かなくなっていくと、こんどはコンピュータが額とつながれ、彼女の「イエス」「ノー」をキャッチしました。耳元で「どこか痛いところはない?」「ノー」といったぐあいに。やがて、それもむずかしくなり、ただこちらが一方的に話しかけることしかできなくなっていました。

 ある日、仕事が早めに終わったので彼女のお見舞いに行くことにしました。彼女は家でだんなさまと介護士の方たちに介護されていて、わたしはいつもそんなふうに、思いついた時にうかがっていたのです。

 へやに入ると、だんなさまも顔なじみの介護士さんもいつになく興奮しているようなのです。とにかくあいさつをして、彼女のベッドのそばに行き、耳元で私が来たことを伝えました。そして、そのへやとつながっているリビングでお茶をいただきながら、話を聞きました。

 「今日ね、大谷さんが来たら見せなくちゃと写真を撮ったところだったんだよ」。指さすほうを見ると、鉢植えの赤いアマリリスの花がみごとに咲いています。それは、前の年にわたしが持ってきたもので、季節のあとは庭の隅に置かれていたそうです。私がお見舞いに行くのは気まぐれで、月に1度のときもあれば3か月も行かないこともあります。今日それが咲いているのに気づいたというのです。

 今日咲いて、今日わたしが来た。それはどういうことなんだろう? 偶然と片づけることはできません。なぜなら、わたしは彼女と話がしたくてしたくてしたくて、それがかなわないのですから。いえ、そんなことは理屈になっていないけれど、それは彼女とアマリリスとの計らい、または、アマリリスが彼女の想いを汲みとって咲いたのだ! そう思ったのです。コンピュータが彼女の想いを汲むには、つなぐラインがいりますが、花にはそれをキャッチできるはるかに優れた力があるのです。(ついでにいえば、彼女のようにたくさんの管を通されて生きている人を「植物人間」といったりしますが、それは彼女のような人たちにも、植物にも失礼なこと。彼らはもっと高次の世界で生きているのだと思います)

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「雪の村に響く、ベルの音とヴォイス

咲きほこるこのアマリリスのこの花こそ、彼女の想いなんだ!  もしそこにたった一人だったら、わたしは両手で顔をおおって号泣したでしょう。だんなさまたちが興奮していたのは、わたしと同じことを受け取ったからでしょうか。

 花と彼女がしたこと。花と彼女が伝えたかったこと。それは愛とか感謝とか命とか………そんなまだるっこしい言葉では、いいつくせないもの。

 それまでにも、お見舞いに行くと、だんなさまが、閉じた彼女のまぶたを手で上げて、瞳にわたしを映しながら「お見舞いに来てくれたよー」といってくれる。それがせいいっぱいのことでした。わたしはただそばに立って話しかけたり、手をさすったりするだけでした。そんなとき、涙が一粒流れるのを見ました。私から見える右側の目から。

 見つけた介護士さんはそれを、「はい、ふきましょうね」と明るくいって、「ただ体から液体が出たのでふきとる」というふうにしてぬぐっていたけれど、わたしはそれを彼女の言葉だとわかったのです。自力でコミュニケーションできる最後の手段が、涙だった。それが束になったのが、あの力強く咲き誇っていたまっかなアマリリスの花だった。そう私は思っています。

 お見舞いにいくたびに、わたしは涙をこらえていました。そして、ドアを閉めたあと駅までずっと泣いていました。だけど! 泣き叫びたいのは彼女のほうだったのに………。そんなことも、許してくれている。あのアマリリスを見て、わかったのです。

 ちょうどその頃、インタビューの仕事でこんな話を聞きました。

 ある女性経営者の方で、会社の経営が暗礁に乗り上げていたときのことだったそうです。もうどうすることもできないと、毎日暗澹たる思いだったとき、会社の自分のへやに置いてあったいくつもの鉢植えに目が行ったのだそうです。鉢植えなど、もうずっと気にも止めなかった、それどころじゃなかった。ふと見ると、いくつもの鉢植えの花がいっせいに咲いていたのに気づいたというのです。「びっくりして、呆然としたわ」。すぐに秘書を呼んで彼女に見せると、「社長に、さあ元気出して!といっているように見えますね」といったそうです。それから気持ちを立ち上げ、会社は少しずつよくなっていったとのことです。

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「雪の村に響く、ベルの音とヴォイス

 話は飛びますが、メキシコでシャーマンと暮らしたことがあります。シャーマンは、大地と、木や森と、自然と、この地球すべてと、宇宙全部と、しっかりとつながって生きていると知りました。

 スイス人の友人が、マジックマッシュルームという、不思議なキノコの研究にメキシコへ渡り、そこでそのシャーマンと知りあっていっしょに暮らし始めたのでした。わたしはそこへ招かれて遊びに行ったというわけです。

 マジックマッシュルームというのは、食べると幻覚を起こすといわれているキノコということで、それを使って病気の治療をしてきたマリア・サビーナというおばあさんにひかれたのがそのきっかけと話してくれたことがあります。ずいぶん前にビートルズも訪れ、『レット イット ビー』の曲はそこから生まれたという話なども聞かせてくれました。「Let it be」とは、あるがままにとか、流れにまかせろといった意味。彼らはシャーマンからそういったことを学んだのでしょう。なんだか、日本の禅と共通するような気がしませんか? メキシコでは女性のシャーマンをブルッハ、男性のシャーマンをブルッホといいます。私は、ブルッホと暮らしました。

 友人はオアハカという、日本でいえば京都のような観光地からさらに車で10時間くらい行った海辺の村に住んでいました。水道も電気もガスもなく、トイレはドアもないオープンスペース。そこにはバケツが3つあって、木屑・石灰・砂と上からかけるものを選べるようになっていました。これはスイス人である彼女の、ささやかな贅沢。おふろは早朝、近くの川に行きました。新月の夜には、隣の人がどこにいるのかさえわからない闇。まわりにたくさんいる野犬の鳴き声と、それを棒で追い払う人たちの声を聞いていました。

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ドールハウスの帽子をかぶった、ドール(人形)の人

ブルッホのマルコスは、いつもショートパンツに白のランニングシャツ、でかける時にはサンダルにリュックをしょっていました。それはまるで、山下清画伯のよう。しかしよく見ると眼光鋭く、どこかの教授のようでもあります。

 ブルッホというのは、呪術をかけることができます。病を治すことも人を狂わせ殺すこともできます。人の未来を見ることができ、悪いブルッホと戦い、月まで飛んでいくこともできるといっていました。くわしく説明しろといわれても、わたしにはできませんが。

 病を治すのは植物の力を借りてすることも多いようです、一緒に暮らしている時、わたしが急にお腹の調子が悪くなり何も食べられなくなると、マルコスは森の中に入っていって、何かの木の皮をてのひら一杯に取ってきてくれました。それを煮出して少しずつ飲んで、少しずつ快復しました。

 彼はそういったブルッホとしての知恵とスキルを、やはりブルッホだった叔父さんから教わったといっていました。子どもの頃に叔父さんに見こまれ、ふたりきりで森の中で暮らし、たくさんのことを学んだそうです。メキシコのシャーマンの歴史は深くて長いようです。

 ブルッホの暮らしを見ていると、飲み水を汲みにいくのに片道4時間も歩きます。いっしょに車に乗っていこうといっても、歩いていく。これは今の日本でランニングが流行っているといったようなことではなくて、歩くということが体にも魂にも重要だということのようです。また、よくハンモックに座って、彼の話を聞きました。たとえば、死ぬことについて。「事故で死ぬと、しばらく自分がどうなったのかわからなくて、魂は浮かんだままになる」とか。日本でよく「どうして人を殺してはいけないか、子どもに聞かれても説明できない」などという大人がいますが、彼はこんなことをいっていました。「人が死ぬというのは、この地球という星の中の、一つが失われるということ。すべてのものに影響するんだ」。つまり、「一つの命も、葉っぱの一枚も一つ残らずぜんぶがつながりあっているから」というのです。それはまるで、ジグソーパズルの1ピースのように。どれが低いか高いではなくて、木も石も人もすべてはつながりあって生きている。そして、すべては、その「つながりあって生きている」ということを知っている、それをよろこんでいる。そんなことをわすれているのは、人間だけなのかもしれない、と。

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ドールハウスの帽子をかぶった、ドール(人形)の人

へやの中に、切り花が1本あるだけでも、はっきりと何かがちがいますよね。「何かと一緒にいる」という気持ち。はれやかで、あたたかみがあって、うれしさがある。

 前に住んでいた家の窓から、大きな桜の木が見えました。自分の木ではないけれど、それがそこにあるだけで、知らないうちにたのもしく落ちついた気持ちでいられたような気がします。そんなことさえはっきりとは気づいてはいませんでしたが。

 ある日、モーターの音がして、窓を開けると、植木屋さんがその木を切ろうとしているところでした。わたしはどうしていいかわからなくて「どうして切るんですか」「そのままにしておくわけにはいかないんですか」などといって、おろおろしていました。そして、ドーン!と音がして、その木が倒れていくところを見つめていました。わたしにできることは、それしかありません。涙が止まりませんでした。こんなに植物と自分がつながっていたとは。泣きながら自分でもびっくりしていました。

 花なんて関係ないような人でも、春になれば花見に行きたくなる。木の下に座ってただ飲んだくれているだけでも、やっぱりうっすらと感じていると思うのです。木の、花の、「つながっているよね」といううれしさを。花の下で、それをふと思い出す。思い出しそうになる。だから、花など見もしないのに、わざわざお花見に出かけていく。

 すべてはつながりあって生きている。ブルッホがいっていたことを、本当はわたしたちも心の底の底では、一人残らず知っているのではないでしょうか。それがこの世の小さな、でも確かな光のような気がします。

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イラスト/太田 多美

絵本でガーデニング

木をけずったり、つるでオブジェを編んだり、花のかんむりをつくったり………やっぱり、ハンドメイドはたのしい! じゃあ、こんなのは? そんな絵本を紹介します。

 これは、ウッディねんどという粘土でつくったものを撮影して、それらをコラージュして仕上げた絵本。そのねんどでつくった作品の色や質感がたのしい。タイトル文字の「ほ」「か」「ほ」「か」「パ」「ン」まで、手づくり感いっぱい。

 おはなしは、おんなのこがおかあさんのおつかいで、ほかほかパンをさがしにいくというもの。スズキ コージさんの絵本はどれも、絵もおはなしもおどろきに満ちています。ジョーシキなんかぶっとばせ!って感じ。とくにこの絵本はビジュアルが!

 途中で出逢うくつ屋さん、花屋さん、本屋さんも、みんなねんど。じっと見ているとクッキーのようにも見えてきて。なんだか、かりっとした歯ざわりと、かんだあとのこうばしさまでが想像できて、食べたくなってくる。こちらを向いているねこ(ふくろう?)などとくにおいしそうで、はじっこからかじってみたくなります。

 絵だけじゃなくて、いろんなものから絵本ができるんですね。自分でもやってみたくなる「刺激的」絵本。

 みなさん、手でつくったものがちょっとでもまわりにあると、あったかい気持ちになれますよね。つくっている時間も、なんだかたのしくおもしろい。へたでも、オッケー。へただからこそ、あったかい。どうぞそんなこともおわすれなくお過ごしくださいませ!

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